俺と僕

 日常では自分のことを俺といいながら心の中では僕と呼んでいる人間は思いのほか多いのではないかと予想している。

 俺なんかは思ったことをそのまま書いている。言文一致だ。俺といいながら僕と書く人は外から見える自分と真実の自分が乖離していると考えられる。だがそれは文章が自己の真実を描けているのだからまあいいんだと思う。

 自己の真実を書く文章をもたない人のことを考える。たとえば女性だ。彼女達は自分のことを私と書くのかあたしと書くのか。

 その昔、日本には漢字しかなく、漢文しかかけなかった。人々は自分のことを書く文章を持っていなかった。自分のことを書きたかったからひらがなやカタカナを作った。しかしそれでも、しゃべる言葉と書く言葉はかけはなれていた。だから明治になってわざわざ言文一致の運動すら起こし文学上の革新を経て我々は思ったことをそのまま書いてもよくなった。

 女性が女性であることをそのまま現せば馬鹿みたいな文章しか書けない。私は馬鹿ではないと考える女性は日本語では自己の真実の文章は書けない。方言がネイティブランゲージである人も、方言で書くと馬鹿みたいな文章になるため方言では真実は書けない。

 顔文字を作ったり省略したり変な記号を使ったりして彼女達は文章を書く。言文一致で書くよりはそっちの方が真実に近いのだろう。だがそれも本当の真実からはかけ離れているだろう。正確な日本文を書けば女性でもなんでもなくなる。それもまた自分とはかけ離れるだろう。俺は男だから良く分からないのだが。自己の真実を語る言葉も持たないくせに、なぜ日記なんか書くのか。そしてそれを公開するのか。虚飾の自己をネットに晒して何を望んでいるのか。それを晒して平然としてるということは、リアルでも虚飾の自己を晒しているのか。なぜ化粧なんかするのか。女性は真実を望まないのか。良く分からない。