起源

 始祖鳥を否定する一冊を読んでとても感動したのを覚えている。半分鳥で半分トカゲなんて、悲しすぎるじゃない。

 トカゲの気持ちになって考えてみる。気持ち悪くてしょうがない。自分の子供が半分鳥だったら、発狂してしまうかもしれない。

 始祖鳥の気持ちになってみる。いたたまれない。自分は違う。何かが根源的に違う。俺は少し飛べる。虫に近い。トンボかなんかかもしれない。俺はトンボとトカゲから生まれた子なのかもしれない。

 俺は滑空する。俺は飛べる。お父さんは飛べない。お母さんも飛べない。そんなに高いところから飛ぶなんて、この子はきちがいなんじゃないか。そんな目で見ている。俺は滑空する。滑空しか出来ない。なんの役に立つんだ。これは。俺の生存戦略は。練り直しだ。俺はトカゲのようには生きられない。どうすればいい。この空を滑るこの力、なんに使えばいいんだ。

 俺は駅前に立つ。街路樹に登る。空を滑る。道行く人が振り返る。

 俺はまた登る。滑空する。何度も何度も滑る。俺にはそれしかできない。

 人が集まってくる。人だかりになる。俺は滑る場所を探す。

 この時間は人が多い。みんなが滑る俺を見ている。木に登る。見下ろせば一面がトカゲ。トカゲの海だ。この駅前の帰宅ラッシュに滑空する何かが一匹。みんながものめずらしそうに見ている。

 この海の中、闇雲に俺は突っ込んでいく。よける。みんながよける。あわてて逃げる人たち。悲鳴が上がる。俺には何もできない。みんなが見ているんだ。俺は滑らなければならない。

 うずくまってる人がいる。逃げようとする人々に、もみくちゃにされたのだろう。俺が滑った結果だ。

 頭上にいるトカゲのようでトカゲでない存在。羽毛をまとった何か。見たこともないクリーチャー。みんなが立ち止まっているから、何の気なしに見上げてしまう。集団心理の中、俺はタイミングをうかがう。降りる場所。トカゲの海の切れ間を探して、それがどこにもないことに気付いた。

 危ないかもしれない。そうは思った。それでも飛んだ。俺にはそれしかなかった。トカゲの海に向かって、俺は滑った。

 頭上にいるクリーチャーが、自分の方をめがけてまっすぐに突っ込んでくる。ありえない動き。ありえない滑空。俺に向かってクリーチャーが飛んでくる。命の危険。この速度でぶつかったら、なにより、コイツは何なんだ。どうしてみんなコイツを見ているんだ。コイツは危険かもしれないじゃないか。

 ほら見ろ。どんどん近づいてくる。ぶつかるぞ。俺にぶつかる。逃げなければ。やつは速い。やつの落下地点から出来るだけ早く離れなければ。くそ。すごい人だ。みんなが逃げ惑っている。集団心理にまかれるな。パニックは最も危険だ。頭上の物体はなんだか分からないが、危険でない可能性だってある。しかしこの人の中で押し合いになったら、圧力が積み重なれば人は圧殺される。花火大会のドミノ崩しだ。何人も死んでるんだ。頼むから俺のほうに来るな。俺の道を開けてくれ。どいてくれ。押さないでくれ。押さないでくれ。お前らがそんなに押したら、俺は。

 だめだ。あっちを見るな。俺は人の波を掻き分ける。空を飛ぶ自分とは違う何か。今はいい。クリーチャーのことはどうでもいい。逃げなければ。この危機から逃れなければ。

 中ほどで動けなくなる。お前ら離れろ。クリーチャーから離れろ。クリーチャーを見るな。クリーチャー見たさを捨てろ。でないと密度が上がりすぎる。もうぎゅうぎゅうだ。外側を広げるしかないんだ。一番外側のやつ、一歩ずつ後ろに下がれ。俺が動ける隙間を開けろ。このままじゃダメだ。前に出すぎた。後ろからどんどん人が逃げてくる。押してくる。

 クリーチャーよ。俺が悪かった。見上げた俺が悪かった。こんな風になると思わなかったんだ。お前が俺に飛んでくるなんて。どこで間違った。俺は真っ先に逃げようとした。人波を掻き分けた。前がつっかえた。その分後ろが押してくる。そうだ。そんなに逃げることはなかったんだ。あいつがどんなに気持ち悪くても、噛みついてくるとは限らない。逃げなくてもいいかもしれない。最低限のアイツの落下地点だけ確保できれば。いいんだ。にげなくて。ちょっとだけ避けて、あと動かなければ良かった。こんなに早く逃げようとしなければ。くそ。ぎゅうぎゅうだ。アイツが襲い掛かってきたって、そのときどうにかすることは出来たはずだ。噛みついてきたなら避けて逃げることも出来た。もうこうなってしまっては、この圧力の中では、身動きが、身動きが…。

 すごい悲鳴だ。痛い、痛いと叫んでいる。誰だ。俺のみぞおちに肘を当ててるのは。誰だ。肋骨が折れる。やめてくれ。肘の位置を変えてくれ。まずい。押すな。それ以上押すな。痛い、痛い、痛い。そうだ。みんなが痛い。みんなが逃げるのをやめればいい。受け入れろ。あの鳥を受け入れるんだ。あいつは鳥だ。トカゲじゃない。怖がることはないんだ。トカゲみたいに噛みついたりしない。だから逃げなくていいんだ。逃げるな。あいつは鳥だ。怖くないんだ。

「見ろ!」

 俺は叫んだ。

「もう上に登っている!」

 逆流しそうな胃液をこらえて、力いっぱい叫んだ。鳥は俺達を見下ろしている。自分がもたらしたこの惨状をどう思っているのか。何を見ているのか。悲しい目をしている。俺のほうを見ている。俺を見ているのか。俺を見るな。お前のせいで、俺は、肋骨が限界まで捻じ曲がって胃液が逆流しかけてる。もう食道まで来てる。ヒリヒリする。頼むから俺を見るな。

「みんな、鳥を見るんだ!」

 そうだ。アイツは鳥なんだ。認識しろ。俺達とは違う。全然違った生き物だ。だから怖くない。自分と似てるけど違う何かじゃない。まったく別の何かだ。

「逃げなくていい。あいつは鳥だ!」

 始祖鳥は自分を鳥と呼んだ男を見ていた。そんな風に思ったことはなかった。不思議な気持ちだった。

 思えば最初から、トカゲとは違っていた。トカゲから生まれた、トカゲでないもの。でも自分はどこかでトカゲだと思っていた。奇妙なトカゲ。親からはきちがいとして扱われた。仲間はいなかった。誰も自分と一緒に居たいとは思ってくれなかった。

 彼らが俺を気味悪がっているのは分かっていた。だから俺も彼らには近づかなかった。俺はお前らにできないことが出来る。見せつけるように滑空をした。あいつらは見ないフリをした。俺を認めることは、地面をはいずる自分たちを貶めることだ。自分達の中に、違ったものがいる。アイツは空の虫ばかり食べている。頭がおかしいんじゃないか。地面の虫を食べて分相応に暮らすという考えはないのか。

 なによりわけの分からないものが生えている。腕に膜があり、毛のようなものが生えている。なぜあんなものが生える? 俺達の仲間に、あんなものが生えるやつはいない。あいつは本当にトカゲなのか?

 今わかった。俺はトカゲじゃなかったんだ。お前らの仲間じゃなかったんだ。俺は鳥だった。お前らと一緒にいるのは不自然だったんだ。

 眼下に広がる地獄絵図を見ながら、始祖鳥は思った。俺はお前らとは違う。俺は空が飛べる。世界はどこまでも広がっている。お前らが決して届かない場所に、俺なら届く。

「俺はこれから空を飛ぶものの一大世界を作り上げる。トカゲには決して到達できない高さからお前らを見下ろしてやる!」

 今は滑空しかできないが、いずれ自力で羽ばたいて飛行してやる。降りるところを決めて飛ぶ必要はない。その気になればどこまでだって飛べる。空からお前らを見下ろし、降下し、咥えてまた上昇する。お前らに生き延びるすべはない。もがいて落ちても死ぬ。食われても死ぬ。本当の絶体絶命。どうやって逃れるか楽しみだ。ま、原理的に無理だろうが。高さという覆しえない絶対的差異に絶望しろ。飛べない己の生まれを悔やめ。そして空を見上げ、おびえながら生きていけ。

 トカゲたちは逃げるのをやめて俺を見上げている。

「死ね! クソ野郎!」
「潰れたやつがいるんだぞ! どうしてくれるんだ!」

 トカゲが何か叫んでいる。俺はお前らとは違う。お前らの言葉は低い。俺に届く高さまで上がってから言えよ。

「悔しかったら飛べばいい! 俺は鳥だ! トカゲが何人死のうと知ったことか!」

 トカゲの眼が血走り始める。オー怖い怖い。今下りたら袋叩きにされそうだ。

 男盛りの屈強なトカゲが木に登り始める。その男に続いて、次々と、我先にとトカゲたちが木を登る。俺のところに来るのも時間の問題だ。

 俺は羽ばたく。大空に向かって。眼下にはトカゲの海。騒ぎのせいでさらに人が増えた。トカゲの海はどこまでもどこまでも広がっているように見える。

 問題ない。その先まで飛ぶだけだ。お前らは俺のところまでこれない。俺の高さには決してたどり着かない。この差。この差を見ろ。認めろ。俺はトカゲじゃない。鳥だ。

 向かい風に乗る。風のことはよく分かる。俺は鳥だから。今までずっと飛んできたから。

 どうすれば自分が長く飛んでいられるかなんて、子供の頃から分かってた。お前らには分かるまい。この気持ちよさが。何も伝わらなくてもいい。仲間なんて要らない。この風、この空があればいい。

 空間を浮揚する感覚。奴らは俺を見上げている。俺を追いかけてるやつもいる。無駄だっての。俺は風に乗っている。地面をはいずるお前らとは、速度が違う。

 いい風だ。どこまでも行けそうだ。トカゲたちが流れていく。すごい数のトカゲが俺を見上げている。非難の色、開き直った俺を糾弾する目線の中に、かすかな憧憬が見て取れる。本当はお前らだって飛びたいんだろ。

「卑怯だぞ!」
「降りて来い!」

 声の大きいやつの声が届く。小さい無数の声は聞こえない。騒がしい場所だ。俺には向いてない。ずっと一人だったんだ。一人で飛んでいたんだ。一人で飛びたい。余計なことを言われないところに。空を飛ぶ者が差別されることのない世界に。

 少しずつ下がっている。トカゲの海はまだ続いている。どこまで続くんだろう。このトカゲたちは。

 あいつがいる。俺のことを鳥といったやつ。俺が鳥であることを教えてくれたやつ。

 そうか、俺は…。

 あまり飛べてないな。けっこう飛んだ気がしたが、たいした距離じゃなかった。あいつのとこまでしかこれてない。まだまだずっと先はある。

 そうだ。俺は鳥だけど、あんまり飛べなかった。滑り降りるだけだ。体重も重い。

 もっとダイエットして…、あと筋力をつけて、羽ばたけるようにすればよかったな。そうすればきっと、もっと飛べた。

 あいつの上をちょうど通り過ぎるとき、あいつはつぶやいた。だいぶ高度が下がっていたので、はっきり聞こえた。

「鳥だろ。飛べよ。落ちるなよ」

 どうかな。でも、やってみるよ。

 俺は羽ばたいた。羽ばたこうとした。こうすればもっと上に行ける。行けるはずだ。

 骨がきしんだ。それでも力いっぱい羽根を広げて、空間を叩いた。風の抵抗を感じる。少し上にあがった。上がったような気がした。もっと上へ。もっと上へ行かないと。高く、高く。

 羽根を戻そうとして、バランスを崩した。風の抵抗を受けて、羽根が変な方向に曲がっていく。勝手に体が傾く。激痛が走る。右の羽根がありえない方向に曲がっている。戻そうとしたが、力が入らない。俺の意思では動かせない。

 羽根が曲がっては、もう浮くことも出来ない。旋回しながら、落ちていく。トカゲたちの中に落ちていく。

 悲鳴が上がる。人々が逃げ惑う。目の前から人が引いていく。トカゲの海が割れる。逃げ惑うトカゲたち。俺は体勢を立て直せない。落ちていく。羽根が地面をこする。腕はもう動かない。羽根がちぎれる。

 左の羽根でどうにか体勢を立て直す。しかし片羽根を欠いた状態では、全く減速が出来ない。そのまま地面に激突する。

 悲鳴、悲鳴が上がる。ほんとうにうるさい。羽根がちぎれかけている。血が流れている。痛みは感じない。ただ、意識が遠くなっていく。誰かが俺の腹をけった。もう何も感じない。顔を踏みつけられた。どうしたらいいか分からない。俺は飛べるのに。俺はもっと飛べたのに。

 トカゲたちが俺を罵倒している。良く聞こえない。